たのゆーは明日から

今日も元気にいってみよう!

三毛別羆事件~熊が北海道で村ひとつを壊滅させた事件知っていますか。

こんにちは、たのゆーです。

今日は、日曜日ですね。
私は日曜日の朝、ゆったりするのが1週間で一番落ち着く時間で好きなのですが、テレビを一緒に観ていた父の一言で、私の好きなその時間帯の全てが失われてしまいました。しかし、今まで知らなかった衝撃的な事件を知ることができ、それを誰かに知らせたいという思いでいっぱいなので記事にしたいと思います。



松本人志さんがコメンテーター、東野幸治さんらが司会の「ワイドナショー」、今日もとても楽しく拝見させていただきました。ゲストの方々が様々な視点から話題のニュースを語っていて、有名な方の持論を聞けるので個人的にはとても好きな番組です。日曜日の朝にしては重いかなとも感じますが。



その後のことに気を取られすぎてどのような話題だったかはうろ覚えですが、
確か、議論されていたのは

小学校で熊が射殺された事

について

だったと思います。

小学生の親や、地元の人は苦情を言っていないのに、
他県から「熊がかわいそう」
「小学校庭で射殺はどうか」というような批判が殺到したとか。


秋田県民、田舎民からしたら、熊というのは本当に身近というか、なんというか度々目撃されるもので、

学校の帰りの会で、「熊の目撃情報が出たので気をつけて帰ってください。」
と先生から注意が入るみたいなのは日常茶飯事で、



「〇〇さんの小屋、熊で荒らされたって」
「□□君ちのおばあさん熊みたんだって」


なんていう会話も普通に家庭で繰り広げられ、



「山菜採りに出かけた何歳男性が熊に襲われるという事件が発生し…」

というニュースが流れれば
わいわいわい(大変だ大変だ)


「民家に熊が侵入し…」

と流れれば
熊が降りてくる時期か…(悟り)


というような感覚で、小学生で射殺された事に関しても「熊がかわいそう」とかそういうことは思わなかったので、(小学生に怪我なくて良かったなと思った)

田舎と都会では
熊についての認識がだいぶ違うんだなぁと思いましたね。



なかなか辛辣な言葉で意見を述べたりされる番組だから炎上したりするのもわからなくもないけどいつも興味の出る話題について話しているから面白いなぁ。

という気持ちで観ていたら、


突然父が、













「熊が北海道で村ひとつを壊滅させた事件知ってるか。」









え、なに。こわい。
知らない。
最近の?





「俺が小さい時に映画でやってた。確か大正4年の事件だったような…」



「なんだっけ、さんけ…三毛別…?」







「冬眠し損ねた熊が人を殺して、保存食にしようとして…」





ちょっとまって。
まだ私の中で受け入れ許可できてない。



それって結構な獣害では?
それを今まで知らなかったなんて。
大正4年とはいえ。


恐る恐る聞いていると

父もところどころ忘れているよう


「被害者何人だったか。うーん…」


とか詰まっているので

はっきりさせたい

ということで

Wikipediaを開くと…


三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)とは、1915年(大正4年)12月9日から12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別で発生した、クマの獣害としては日本史上最悪の被害を出した事件。

Wikipedia三毛別羆事件」引用



三毛別羆事件


ほんとに4年だ…

12月ってこと父の言った通り冬眠し損ねたのか。
そういう熊を「穴持たず」というみたいです。


この事件を知っている方はどの位いらっしゃるのでしょう。
私は全く知りませんでした。
調べてみると何年か前にテレビなどで紹介され、本も出されているみたいですが、
私のように知らない方もいるのではないかと思い、紹介させて頂きます。


ここからは
Wikipediaの文が衝撃的すぎる、かつ長いので引用しながら説明したいと思います。







《 》内部に私の感想を書かせていただきます。




重要な描写を抜粋させて頂いたので泣く泣く載せられなかった描写もあります。


かといって
端的に説明するのは難しく、
かなり長い記事になってしまいました。



更にはWikipediaでのなかなかショッキングな描写を引用した部分もありますので

それでもいいよ。

という方のみ、お進み下さい。



























三毛別羆事件


事件の経緯


池田家の騒動

11月初旬のある夜明け前、六線沢の池田家に巨大なヒグマが姿を現したが、被害はわずかなものに留まった。その後ヒグマは三度現れたが仕留めるには至らなかった。足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。




12月9日
太田家の惨劇
秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷するため男達の多くは出払っていた。


12月9日の朝、太田家でも、同家に寄宿していた長松要吉が仕事に向かい、当主の太田三郎も出かけ、妻・阿部マユ(当時34歳)と太田家に預けられていた少年・蓮見幹雄(当時6歳)の2人が留守に残りった。




昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。狸寝入りしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手を掛けてのぞき込んだ。その時、要吉は幹雄の顔下に付着した血の塊と、何かでえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。幹雄は亡くなっていた。要吉はマユを呼んだがただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。


《 狸寝入りしていると思って声をかけながら顔をのぞき込む。こんなにも日常的な行動が行われていることで、より恐怖感が増すように感じます。文からは要吉さんが感じたであろう怖れが伝わってきて、私がもし発見者であったらと考えさせられました。》



入口の反対側にあるトウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき頭髪が絡みついていた。


実は事件直後、三毛別の村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、マタギが獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、その時は特に騒ぎ立てなかった。


《 村人がマタギが通った跡だと思った線がマユさんのものだったとは。時間が余り経っていないことを考えると村人がマユさんを引きずっている熊に鉢合わせになる可能性も十分にあったことが分かります。》


事件の報に村は大騒動となったが、この日に打てる手は少なかった。とり急ぎ幹雄の実家である蓮見家への連絡を取らなければならない。しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。それは斉藤石五郎(当時42歳)が引き受けることになった。石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村へ外出しなければならない明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(当時6歳)、四男・春義(当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。





12月10日
捜索
早朝、斉藤石五郎は村を後にした。残る男達は、ヒグマを討伐してマユの遺体を収容すべく、約30人の捜索隊を結成した。周囲を捜索した彼らは、トドマツの根元に小枝が重ねられ、血に染まった雪の一画があることに気付いた。その下にあったのは、黒い足袋を履き、ぶどう色の脚絆が絡まる膝下の脚と、頭蓋の一部しか残されていないマユの遺体だった。

このヒグマは人間の肉の味を覚えた。マユの遺体を雪に隠そうとしたのは保存食にするための行動だったー。


《 野生の羆が人間の味を覚える。シンプルな文ですが、これがどれだけ怖いことか。人間を保存食にするため雪に隠そうとしたとは。まさに、序盤にあるとおり「穴持たず」の熊は凶暴である。だと思いました。》



太田家への再襲


夜になり、太田家では幹雄とマユの通夜が行われたが、ヒグマの襲来におびえ、参列したのは9人だけだった。幹雄の実母・蓮見チセ(当時33歳)が酒の酌に回っていた頃、大きな音とともに居間の壁が突如崩れ、ヒグマが室内に乱入して来た。棺桶が打ち返されて遺体が散らばり、恐怖に駆られた会葬者達は梁に上り、野菜置き場や便所に逃れるなどして身を隠そうとする。混乱の中、ある男はあろうことか自身の妻を押し倒し、踏み台にして自分だけで梁の上に逃れた。以来、夫婦の間では喧嘩が絶えず、夫は妻に一生頭が上がらなかったという。

50人ほどの男達が、物音や叫び声を聞いて駆けつけたが、その頃にはヒグマはすでに姿を消していた。

《 通夜の最中にまたしても羆が襲ってくるとは。恐ろしい限りです。》




明景家の惨劇


その頃、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(当時10歳)、次男・勇次郎(当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(当時3歳)、四男・梅吉(当時1歳)の6人と、斉藤家から避難していたタケ、巌、春義の3人、そして要吉の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。

太田家からヒグマが消えてから20分と経たない頃、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。

ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついた後、3人を手元に引きずり込み、ヤヨの頭部をかじった。だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。


追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。この時、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気付いたヒグマは彼女にも襲いかかった。居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。


《 熊に胎児の命乞いをする母、子供が心配で顔を出してしまい襲われるとは、なんと言えばいいのか分かりませんが、本当に悲しいです。》

川下に向かっていた一行に、重傷のヤヨと子供達がたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。途中で、重傷を負いながらも脱出してきた要吉を保護した後、男達は明景家を取り囲んだが、中からは、タケと思われる女性のうめき声と、肉を咀嚼し骨を噛み砕く音が響く。一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回ったが、仕留められずヒグマは姿を消した。


松明を手に明景家に入った者の眼に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。タケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、その時には少し動いていたという。しかし一時間後には死亡した。力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった。力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意に男児の声があがった。ひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた。巌は肩や胸にかみつかれた傷を負い、左大腿部から臀部は食われ骨だけになっていた。

重傷者は辻家に収容されて応急の手当てを受けた。巌は母・タケの惨死を知るすべもないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、20分後に息絶えた。この二日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。




12月11日

すべての住民が三毛別分教場に避難した六線沢に人影はなく、三毛別地区区長の大川与三吉(当時47歳)らが話し合い、ヒグマ退治の応援を警察や行政に頼ることを決議した。その一方、家族に降りかかった悲劇を知らず雪道を往く斉藤石五郎は、11日昼近くに帰路についた。下流三毛別にたどり着き、妻子の受難を知らされ、呆然と雪上に倒れ伏しただ慟哭をあげるしかなかった。

《 石五郎さんが帰ってきた時には妻子は亡くなってしまっていた。石五郎さんがどれだけ無念だったか。どれだけ熊が憎かったか。》


12月12日

討伐隊の組織
六線沢ヒグマ襲撃の連絡は北海道庁にもたらされ、討伐隊の組織が指示された。

菅警部は協力を仰ぎ、多くの人員が三毛別に集まった。しかし、林野に上手く紛れるヒグマの姿を捕らえることはできなかった。





待ち伏せ
ヒグマには獲物を取り戻そうとする習性がある。これを利用する策が提案され、菅隊長はこの案を採用し、罵声さえ覚悟して遺族と村人の前に立った。だが、説明に誰一人異議を唱える者はおらず、皆は静かに受け入れた。こうして、犠牲者の遺体を餌にヒグマをおびき寄せるという前代未聞の作戦が採用された。

作戦はただちに実行された。銃の扱いに慣れた7名が選ばれ、交替要員1人を除く6名が、補強した梁の上でヒグマを待ったがヒグマは歩みを止めて中を警戒したため作戦は失敗に終わった。




12月13日
この日、将兵30名が出動した。一方、ヒグマは村人不在の家々を荒らし回っていた。その暴れぶりからもヒグマの行動は慎重さを欠き始めていた。昼間であるにもかかわらず人家に踏み込むなど警戒心が薄れていた。

そして夜、一人が、対岸の切り株の影に不審を感じた。隊長の命令のもと撃ち手が銃を放った。すると怪しい影は動き出し闇に紛れて姿を消した。





12月14日
最期
一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。急いで討伐隊を差し向ける決定が下された。一行の他に、10日の深夜に話を聞きつけて三毛別に入った山本兵吉(当時57歳)という熊撃ちがいた。兵吉は、若い頃に鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、評判が高いマタギだった。

兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。ヒグマは頂上付近でミズナラの木につかまり体を休めていた。音をたてぬように、にじり寄った兵吉は、銃を構えた。銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの屠られた姿だった。





熊風
ヒグマは雄で、重さ340kg、身の丈2.7mにも及び、推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。これほど特徴のある熊を誰も見たことがないという。隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者など様々だった。やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。

ヒグマの死骸は馬ぞりに積まれた。しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数でそりを引き始めた。すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた。雪は激しい吹雪に変わりそりを引く一行を激しく打った。言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。





解剖

解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみを新たにした。犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味は良くなかったという。皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた。その後肝などとともに50円で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈られた。毛皮や頭蓋骨は消息不明である。


《 熊が殺されても悲しさ、悔しさが癒えることはなかったのではないかと考えます。熊を食べる時、人々はなにを思っていたのか、想像が及びもつきません。》



その後

ヤヨは順調に回復したが、背負われたまま噛みつかれた明景梅吉は、2年8ヶ月後に死亡した。この少年を含め事件の死者を8人とすることもある。

事態は解決しても、村人に心理的恐怖を残した。ひとりまたひとりと村を去り、下流の辻家を除いて最終的に集落は無人の地に帰した。

ヒグマを仕留めた山本兵吉はその後もマタギとして山野を駆け回り、92歳で亡くなった。彼の孫によると、生涯で倒したヒグマは300頭を超えるという。


区長の息子、大川春義(当時7歳)は、その後、名うてのヒグマ撃ちとなった。これは、犠牲者ひとりにつき10頭のヒグマを仕留めるという誓いによるもので、102頭を数えたところで引退し、亡くなった村人を鎮魂する「熊害慰霊碑」を三渓三渓神社に建立した。また春義の息子・高義もハンターとなり、父・春義も追跡していた体重500kgという大ヒグマ「北海太郎」を8年がかりの追跡の末に仕留めている。さらにその5年後には、他のハンターと2人で、体重350kgの熊「渓谷の次郎」も仕留めている。

《 春義さんの悔しさは熊を仕留めていくことで和らいでいったのだろうか。今となっては分かりませんが何人もの命を奪い、何十人もの人々の人生を変えてしまった「三毛別羆事件」が悲劇であったことは今後も変わりません。》

Wikipedia三毛別羆事件」より引用



ここまで読んで下さった方はいらっしゃるのでしょうか。想像以上に長い記事になってしまいました。


私の熊及び野生動物の認識はこの事件を知ったことで大きく変わりました。近くに熊がいるといっても実際に襲われそうになった経験もない私は熊たちが危険な存在であることを知ってはいても、本当のことは何一つ知りませんでした。
2016年に秋田鹿角で、熊に襲われた遺体が発見されていても、深く調べることをしたりはしませんでした。
知るチャンスはいくらでもありました。
何故あの時、そのような事件について調べなかったのか、本当に後悔しています。
これを知ったからと言って、その恐ろしさのすべてを理解出来たとは到底思っていません。

しかし

三毛別羆事件は忘れてはならない悲劇
です。


当事者でない私が書いて良いものかとかなり考えましたが、皆さんに知ってもらいたいという一心で書かせていだだきました。

さらに詳しく知りたいという方には今回載せることの出来なかったWikipediaの文をぜひ読んでほしいです。


後日談

大川春義さんの最期

1985年12月9日、三毛別羆事件の70回忌の法要が行なわれた。大川は町立三渓小学校の講演の壇上に立ち、「えー、みなさん……」と話し始めると同時に倒れ、同日に死去した。大川は酒も煙草もやらずに、当日も朝から三平汁を3杯平らげ、健康そのもののはずであった。その大川が事件の仇討ちとしてヒグマを狩り続けた末、事件同日に急死したことに、周囲の人々は因縁を感じずにはいられなかったという。
Wikipediaより

春義さんは、

犠牲者たちの仇だけを考えてヒグマ狩りを続けたものの、100頭を達成した後には、本当に悪いのはヒグマではなく、その住処を荒らした自分たち人間の方ではないかと考えた

Wikipediaより

とあります。



羆がした事は本当に恐ろしい事ではあるけれど、先に羆の住処を荒らしたのは人間。




先進国の中でもとくに大型の野生動物が人のそばに暮らす状況にある日本。






野生動物と人間は共存できないのか。





人間が自然に戻ることは難しいでしょう。





人はどうするべきなのか。どうしようもないのか。



生態学者でも何でもない私がこんなことを言うのはあつかましいし、結論も出せるわけがない。



ただ、この事件を知ったことで色々なことについて、考えるきっかけになりました。


皆さんにも是非この事件を知って欲しい。

考えてほしい。